日本歴史上の人物たちの大恋愛!悲恋やキュンとする純愛の恋バナ5つ

“歴史上の大恋愛”という言葉をインターネットで検索すると、決まって欧米諸国の偉人たちにまつわる話がヒットします。

さまざまな文化が日本よりも一歩も二歩も進んでいた海外では、日本のように政略結婚も根強くは残っていましたが、どんなに高い壁があろうとも、それを乗り越えて結ばれた、大恋愛結婚を成し遂げたカップルも多いようです。

当時から“恋愛は人生のスパイス”と捉えられる傾向にあった欧米諸国と、どこか閉鎖的だった日本とでは文化の違いもあるのかもしれませんが、実は日本の歴史上の人物たちも、ちゃんと大恋愛はしています。

そこで今回は、あまり知られていない日本の歴史上の人物たちの大恋愛についてご紹介します!

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海外だけじゃない!日本にもあった歴史上の人物たちの大恋愛

今回は日本の歴史上の人物たちの大恋愛についてご紹介していくわけですが、前置きをしておきたいことがあります。

昔は政略結婚が非常に多かったということ。

特に戦国時代に言えることですが、御家の存続が最優先事項であり、その家の統領が言ったことに従わざるを得ない時代において、恋愛結婚は非常にレアケースでした。

しかし、例え政略結婚であったとしても、そこに愛が芽生えることは珍しい話ではなく、良好な関係を築くことができたカップルも多くいるのです。

明智光秀 × 煕子(ひろこ)

明智光秀と言えば、歴史の教科書でもお馴染みの“本能寺の変”を起こした人物。

“謀反人”というイメージが強いですが、近年の研究によると、政治力はもちろん人間性にも大変優れていて、再評価すべき人間としてクローズアップされています。

そんな光秀の人間性が垣間見られるのが、妻、煕子とのエピソードになります。

煕子は、光秀と結婚する前に不運にも“疱瘡(ほうそう)”といって、今で言うところの水疱瘡の発疹が全身に出てしまい、顔にもその痕跡が残ってしまいました。

嫁入り前の顔に、仕方ないとは言え病の跡が残ってしまったとなったら、やはりへこんでしまいますよね。煕子も「こんな顔では彼には会えない・・」と思い悩んだかもしれません。しかも、煕子は絶世の美女とも謳われた人物、そのショックはいかばかりだっただろうかと推測されます。

煕子の両親は、そんな娘の悲しみ、そして光秀に対しての贖罪の意味を込めて、煕子ではなく、煕子の妹との縁談を光秀に持ちかけます。

しかし、光秀はそれを拒否し、煕子をもらい受けることを譲りませんでした。

光秀にとって煕子は煕子、外見がどのこうのという問題ではなく、煕子そのものを愛していたので、その思いを貫いたのでしょう。

その後、二人は無事結婚し、苦楽をともにすることになります。

夫が苦境の時は妻が全身全霊で支え、その愛に応えるように、光秀は生涯側室を持たなかったと言われています。

鍋島直茂 × 彦鶴姫(藤の方・陽泰院)

鍋島直茂は、備前佐嘉軍本庄村の在地豪族、鍋島清房の次男、一方、彦鶴姫は備前飯盛城主、石井常延の次女ということで、身分の差が大分あるカップルでいて、今で言うところのバツイチ同士となります。

彦鶴姫は夫が戦地で討ち死にしてしまって“出戻り”状態になったわけですが、直茂の場合は、他ならぬ彦鶴姫の存在があってそうなったと言っても過言ではありません。

というのも、二人の出会いは彦鶴姫がいた飯盛城で、ある合戦に勝利した肥前国の龍造寺隆信と家臣であった直茂が飯盛城に立ち寄って、焼いたイワシで昼食をとっていたときでした。

直茂たちの一行は非常に人数が多かったようで、もてなす側の飯盛城の侍女たちはてんやわんや、大量にイワシを焼くことに悪戦苦闘していたようです。

そこに彦鶴姫が現われ、侍女たちの手際の悪さを叱責し、自らかまどの火と炭を持ち出すと、庭先に広げて大量のイワシを焼きだしたと言います。

炭まみれになってしまったイワシは、ふるいに掛けて炭が落とされ、一気に大量のイワシをお膳に並べ、事なきを得たそうです。

一国の姫でありながら、機転を利かせ見事成し遂げた彦鶴姫の姿を見た直茂は一瞬にして心を奪われ、「あのように機転の利く妻を持ちたい」と思い彦鶴姫へ求婚し、秘密裏に彦鶴姫の元へ足繁く通ったそうです。

さて、ここからなのですが、当時直茂には慶円という奥さんがいて、二人の間には伊勢龍姫も生まれていましたが、慶円とは離婚をし、彦鶴姫を迎え入れているのです。

女性としては、何だか微妙な話ではありますが、それほど直茂は彦鶴姫に惹かれるものがあったのでしょう。

豊臣秀吉 × ねね

身分違いの恋と言えば、このカップルを外すわけにはいきません。

豊臣秀吉は、農家の出の足軽だった木下弥右衛門の子で、ねねは、織田信長に仕えていた弓頭、浅野長勝の養女。

そんな身分の違う二人が結ばれるきっかけを作ったのは、他ならぬあの織田信長でした。

二人の出会いは、信長の鷹狩りの帰り、浅野家の屋敷に立ち寄り休憩をしていたときに、養女であるねねが、信長へお茶を出したときのこと。

立ち振る舞いが美しく、器量も良いねねを見て、信長はとても気に入ったそうで、秀吉にねねを嫁に貰うように命じたそうです。

ねねの両親、特に母親はかなり反対したようですが、二人は障害をはねのけ結婚します。

武家の娘の結婚式と言えば、屋敷に多くの客人を招き盛大に祝うものでありますが、秀吉とねねの結婚式は何とも質素なもので、すのこの上にワラを敷き、その上にござを敷いて宴席を作ったと言います。

ねねの両親にしてみれば質素を通り越して惨めにすら感じたかもしれません。

それでも二人は、壁を乗り越えて夫婦になれた喜びをかみしめていたことでしょう。

秀吉はかなりの女好きで、ねねと結婚してからも浮気ばかりしていましたが、やはりねねに優る女性はいなかったのか、ことあるごとに、ねねへラブレターをしたためています。

飾らない女性だったというねねは、秀吉にとって、妻でありながら母のような存在でもあり、何でも話せる親友のような存在でもあった。

だからこそ二人は末永く一緒にいることができたのかもしれませんね。

大山巌 × 山川捨松

こちらの二人は、激動の幕末期において恋愛結婚をしたカップルで、大山巌は薩摩藩士で、新政府軍として会津藩を打ち砕いた張本人。

山川捨松は、家族とともに鶴ヶ城に籠城し、抵抗むなしく降伏を余儀なくされた会津藩士の娘。

良くも悪くも、この会津戦争によって運命が変わった捨松。

里子に出されたり、そこからフランス人の夫婦の元に引き取られたりと転々とさせられますが、そのおかげで欧米の文化を身につけていくことになるのです。

そして、北海道の開拓技術を学ぶために女子留学生としてアメリカへ渡り、優秀な成績を修め、出国してから11年後に帰国の途につくこととなります。

一方、大山は、捨松がアメリカに渡っている頃にスイスへ留学しており、やはり海外に出ることでさまざまな文化に触れ、希望に満ちあふれた人生が待っていると思っていた矢先、大山は最愛の妻を亡くします。

当時、外交の場にはパートナーを同伴させ親交を深めることが一般的だったため、妻の父、吉井友実は大山の後添えを探し始め、白羽の矢が立ったのが捨松でした。

西洋への造形も深かった大山にとって、知識教養に富み、エレガントな雰囲気を醸し出す捨松はまさに理想の相手、一気に恋に落ち縁談を申し込みます。

ところが、捨松にとって、大山は祖国を奪った薩摩の人間、当然ながら、縁談は即座に断られてしまいます。

しかし、大山は決して諦めませんでした。

親戚筋にあたる西郷家に相談し、いとこであり、西郷隆盛の実弟でもある従道を山川家に向かわせ、説得に当たらせます。

西郷も言わば逆賊の汚名を着せられてしまった一族、どこか通じるものが合ったのか、はたまた熱意に根負けしたのか定かではありませんが、最後は本人の意志に任せると折れる形となり、晴れてデートをすること許されます。

そこからの進展はとても早く、3ヶ月後には結婚をします。

生涯おしどり夫婦として幸せな家庭を築いたそうで、過去の遺恨を乗り越えて結ばれたカップルです。

愛に生き愛に散る!歴史上の大恋愛は悲しい恋の結末も多い

歴史上の大恋愛ですが、私たちが失恋するのと同じで、昔の人ももちろん失恋しています。

大名に嫁ぐ姫君は大概こんな結末を迎えることが多く、悲劇のヒロインが誕生しやすいといえます。

ここでは、歴史上の大恋愛をしながら、悲劇のヒロインとなってしまった代表的な人物についてお話ししていくことにしましょう。

信長の妹 お市の方

戦国一の美女と謳われるお市の方は聡明な一面もあり、兄である織田信長にとても可愛がられていました。

お市の方が21歳の時、信長の命令で近江・小谷城主浅井長政の元へ嫁ぎますが、長政の父や家臣たちはこの結婚には反対したと言います。

結婚する=同盟関係を結ぶこととなるのですが、難色を示していたのでしょう。

浅井家の昔からの同盟国である、越前・朝倉家との関係を重視していたからということが言われていますが、野心溢れる信長を信用していなかった、とも取れるかもしれません。

そんな中、結婚生活がスタートするわけですが、何かと肩身の狭い思いをしているお市の方を、長政は懸命にサポートし、お市の方も浅井家に馴染もうと、できる限りの努力をしたそうです。

ところが、信長は朝倉家が上洛命令を無視したとして、お市の方の結婚の際に約束した“朝倉攻めず”の約束を破り、戦を仕掛けていきます。

浅井家は織田家の裏切りに対して同盟を破綻し、朝倉家側につきますが、武力に勝る織田軍に勝てず、長政はお市の方と子供たちを逃がした後、自害し果ててしまいます。

織田家へ帰ったお市の方ですが、その後も織田家筆頭家老の柴田勝家と再婚するも、やはり再び戦に巻き込まれ、逃げることに疲れてしまったところもあるのでしょうか、お市の方は自害の道を選び、37歳の若さで人生に幕を下ろしました。

日本史だって捨てたもんじゃない!歴史上の大恋愛は勇気をくれる

今回は、日本の歴史上の人物の大恋愛についてお話ししてきました。

歴史上の大恋愛というと、どうしても欧米諸国の貴族などの話が取り上げられることが多いですが、日本史に出てくる歴史上の人物たちも負けてはいません。

多くの制約やしがらみのある中で、一途に思いを貫き通す姿勢は、現代においても学ぶべき点と言えますし、恋に破れてしまっても、次の出会いが待っているということも教えてくれています。

恋愛に疲れてしまったときや、自分に自信がなくなってしまったときなど、ぜひ、歴史上の人物たちの大恋愛の話を紐解いてみてはいかがでしょうか。

自分に必要な答えが、そこにはあるかもしれませんよ。

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